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秩父夜祭

はじめに

いま全国に知られる「秩父夜祭」を、地元の住民たちは端的に「冬まつり」と云う。
また近郷近在では「妙見まち」、北関東一帯の養蚕農家では「お蚕まつり」、そして東北から関東一円の露天商は「妙見さんの大市」とよび慣わしてきた。こうした通称はそれぞれこの祭がもつ性格をよく表しているが、正式には、いうまでもなく秩父地方の総鎮守、秩父神社の年に一度の大祭である。
全国の古いお社は、おおよそ土地の神話的風土をその社地と祭礼とで体現してきているものである。秩父神社もまた関東屈指の古社として、よく秩父盆地の生活風土を昔ながらの神話的世界に包み込んで、今はとかく薄れがちな故郷の風貌をなおも色濃く伝えている。
秩父夜祭は、そうした故郷の祭礼文化として住民たちのかけがえのない行事であり、また参詣や見物におとずれる多くの客人たちの望郷の心を揺さぶる祭礼であり続けている。

祭の淵源

屋台重量感あふれる豪華な屋台

この大祭を彩る祭礼行事は、重量感あふれる豪華な笠鉾と屋台とが、勇壮な太鼓囃子のリズムに乗って曳きまわされ、屋台歌舞伎や曳き踊りを上演すること。それに加えて冬の寒空に贅沢なほどの、打ち上げや仕掛けの大花火を競演することで、よく知られる。だが実は、いずれも秩父神社の夜の神幸祭にともなう「付けまつり」、つまり付帯の神賑わい行事として、江戸時代の後期から明治・大正にかけて盛んにしたものにほかならない。
そして、その核をなす祭神出御の神事は、はるか古代に発祥した地元風土の神を祭る形式を今に伝える、はなはだ貴重な伝承祭祀なのである。そこで、この伝統文化の継承に意義ありと認められたからこそ、現在は全国に数少ない国の「重要有形・無形民俗文化財」に指定されているのだ。

たとえば、宝永六年(1709)に時の代官へ提出した「秩父領百姓年中業覚」という文書がある。それには当時の年間行事の中に、旧暦正月の二十日から二月三日までを「妙見神事」と称し、郡内すべての住民が男女それぞれの仕事や娯楽を控えて物忌み精進につとめている、とある。そしてさらに、十月の二十日から十一月三日までをも同じく「妙見神事」と言って、同様の物忌み精進をすると報告している。これは、秩父郡中の農家が、総鎮守の春祭である旧暦二月三日の「田植祭」と、冬祭である旧暦十一月三日の「妙見祭礼」とに際して、それぞれ十数日のあいだ身辺を清浄に保つ敬虔な営みにほかならなかった。しかも注目してよいのは、初夏の四月八日と晩秋の十月上旬には「武甲山祭」という行事があって、郡内一円の領民が「妙見岳」とも仰ぐ武甲山に登拝していることである。

夜祭の由来

秩父神社の神体山「武甲山」秩父神社の神体山「武甲山」

現行十二月三日の夜祭をめぐっては、今でも地元に語り伝えられる微笑ましい神話がある。それが語るには、神社にまつる妙見菩薩は女神さま、武甲山に棲む神は男神さまで、互いに相思相愛の仲である。ところが残念なことに、実は武甲山さまの正妻が近くの町内に鎮まるお諏訪さまなので、お二方も毎晩逢瀬を重ねるわけにもゆかず、かろうじて夜祭の晩だけはお諏訪さまの許しを得て、年に一度の逢引きをされるというのである。
なるほどこの祭には、まず二日の晩に「お諏訪渡り」と言って、神幸路の途中にある諏訪社に予め神幸祭執行を報告する神事があり、翌三日の晩には、神幸行列を先導する六台の笠鉾と屋台も、この諏訪社に近い地点を通過するときには勇壮な屋台囃子の鳴りをひそめて静かにする例が守られている。
たしかに武甲山は、その山麓に対面して鎮座する秩父神社の、いわば神体山に当たる。盆地の南面を遮って一千米ほどそそり立つ山容は、山麓に拡がる秩父市街を見守る巨大な屏風をなすが如くである。そしてこの夜祭には、市街中央の本社から祭神が武甲山に向けて出立され、この山を正面に望んで「お花畑」という名をもつ高台の「お山」神事によって、神体山に還り鎮まるという古代祭祀の様式が、今に潜んでいるのだ。
秩父地方開闢の頃に秩父国造が本社祭神を八意思兼神に定め、やがて中世に妙見菩薩がそれに習合する。そのように本社に常在する祭神が出来、いつしか本社の女神とお山の男神が別の神格とに分かれたことで、夜祭も男女二神逢瀬の神事となった。しかし、それでもなお、古代祭祀の原型をとどめる徴があって、それが唯一、神幸行列の先頭を行く大榊に巻きつけられた藁造りの龍神に求められる。

秩父の龍神信仰

長さ三間ほどの藁の龍神長さ三間ほどの藁の龍神

長さ三間ほどのこの藁の龍神は、先に紹介した旧暦二月三日の春祭、今は毎年四月四日に執行される「御田植祭」に登場する。この祭は、春先に豊作を祈って稲作りの所作を神事とするものだが、その際に市内の一角に鎮座する今宮神社の龍神池から水神を神役たちが迎える行事であって、そのご神体が、田の水口をかたどる藁の龍神なのである。そしてこの龍神池は、かつて河岸段丘の豊かな湧水を成し、盆地内でいちはやく住民が定着した中村(丹党中村氏の在所)の水源であり、しかも武甲山からの伏流水とみなされてきた。つまり、そのことは、春を迎える本社の田植神事が水源を通して武甲山の龍神を迎えることを示しており、したがって秋の収穫を終えての夜祭には、神幸行列の大榊に乗ったその龍神を、また武甲山に送り還すことになるのである。
秩父神社がその里宮として対面する武甲山の山腹には、「大蛇窪」という故地があって石灰岩の開発が進む今でも、この「お山」に大蛇が棲むという根強い信仰がある。

また明徳二年(1391)の開基と伝える地元の大林山広見寺の開山縁起には、近くの池に棲む龍神が初代禅師の説法に帰依して荒川の淵に飛び移ったが、この龍神こそ「秩父総鎮守妙見菩薩」にして、それ以来、毎年六月の川瀬祭(現在は七月二十日)がその「妙見淵」で執行され、また二月の「初寅妙見」に住職が神前で「円通懺摩法」を修して祈祷するのが例だ、と説かれている。

秩父神社の位置

地元風土の地主神が龍神であり、土地第一の聖山に棲んで治山水源の「大神」(大国主・大名持の神)であることは全国各地の土地神話も物語っている。
秩父神社の現社殿にある有名な「つなぎの龍」の伝説も、夜祭で「お諏訪渡り」する理由も、諏訪神も本来龍神であることを思えば、先史以来の「秩父大神」が「お山」に棲む龍神であることと無縁とは考えられない。
こうして見るところ、秩父盆地の中央に鎮座する秩父神社が、なぜこの土地一円の総鎮守なのかが明らかになる。つまりは、盆地全体の聖山・武甲山という<山宮>に鎮まる秩父国魂の「大神」を、春の田植祭≠ノ本社の<里宮>に歓迎し、やがて農事や養蚕の収穫を終えた晩秋に、この秩父夜祭≠ナまた「お山」に鎮送するという、この毎年の送迎神事、すなわち盆地全体の<風土祭祀>を、当社が千古変わらずに執行してきたからこそなのだ。ともあれ、やがて訪れる木枯らしの秩父颪も、この夜祭あってこそ山びとが、それを凌いできたのである。

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